正倉院ってなんだろう?

聖武天皇(しょうむてんのう)、光明皇后(こうみょうこうごう)プロフィール

聖武天皇(しょうむてんのう)『わたしは聖武天皇。妻は光明子(こうみょうし)。私が天皇であったころは、世の中が非常に不安定でした。そのため仏教を深く信仰(しんこう)し、奈良の大仏をつくり、国ごとに国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)を建てて、国と民(たみ)の平安を願いました。』
光明皇后(こうみょうこうごう)『わたしの父は藤原不比等(ふじわらのふひと)。天皇家の人間以外として初めて皇后になりました。わたしは夫の聖武天皇とともにあつく仏教を信仰し、悲田院(ひでんいん)や施薬院(せやくいん)をつくって、身寄りのないこどもや病人を救いました。』

正倉院なんでもQ&A

なぜ光明皇后は大仏に宝物をささげたの?
国宝 東大寺大仏

国宝 東大寺大仏

A

 聖武天皇の時代(8世紀中ごろ)には、病気がはやり、大きな争いもおきて、世の中が乱れていました。そのため聖武天皇は、仏教の力で国の不安を取り除こうと考え、奈良に東大寺を建て、大仏をつくりました。大仏をつくるのは天皇の大きな願いでしたので、できあがった752年には、盛大な儀式をしてお祝いをしました。
 けれども、聖武天皇はその4年後に亡くなりました。わたしは、聖武天皇が大切にしていためずらしい宝物を見るたびに、天皇のことが思い出され、悲しくてなりません。それで、天皇のめい福をお祈りするために、それらの宝物を大仏にささげたのです。


外国製の宝物はどうやって日本に来たのかしら? A

 外国製の宝物は、とう新羅しらぎ渤海ぼっかいなどの国々から船で日本に運ばれたんだ。とくに、唐は優れた文化をもつ大国で、都の長安ちょうあんには、ペルシャ・インドなど世界各地の文物が東西交易のシルクロード(絹の道)を通じて集まっていたんだ。だから、日本からたびたび遣唐使けんとうしを送って文化を学ばせ、珍しいものを持ちかえらせたんだよ。また、新羅や渤海から日本に宝物がおくられたり、それらの国の使いや商人が運んできた品物を買ったりもしたんだ。鳥毛立女屏風とりげりつじょのびょうぶの中にはられた紙には、新羅の使いから、鏡や香料などを買っていたことが書かれているよ。正倉院の宝物は、外国との交流のあかしなんだね。

シルクロードと8世紀の主な国と都市
正倉院の内部はどうなっているの?
唐櫃(からびつ)

唐櫃(からびつ)

A

 正倉院の、一番大事な建物が正倉しょうそうなんだ。正倉は、北倉ほくそう中倉ちゅうそう南倉なんそうという3室に分かれていて、中倉は板でかべをつくり、北倉と南倉は、三角の木を組んだ「校倉造あぜくらづくり」になっているんだよ。正倉内部は屋根裏も含め3層になっていて、宝物はこの大きな正倉のなかで唐櫃からびつという容器に納められていたんだ。唐櫃には、虫や湿度しつどの急激な変化による宝物へのダメージを少なくする働きがあるよ。正倉のとびらは天皇の許しがないと開けられず、みだりに中に入れなかったんだ。宝物はこうして厳重に守られてきたんだよ。宝物は今、昭和になって建てられたコンクリート造りの東宝庫と西宝庫に移されて、そこで大切に保存されているんだ。

正倉内部の図解
正倉院年表